花の掟

靖夫は或る晩に夕涼みをしようと、河原を独り歩いていた。眼には様なものが見えるが、変わりばえのないいつもの景色は、まだ何も描かれていない画布のようで、つまらんと思っていた。黒い草叢は風にさざめき、月明かりが流れる。と、普段とは違う何かが気にかかり近づいていくと、じっとしているような白いものがあった。よくよく見てみると一輪の花であった。蛹から抜け出したばかりの蝉や蝶のように、皺くちゃとなった羽を、時間をかけて、重力にまかせて広げている神秘的な時の流れを彷彿した。蕾からほころんだ花弁はいま、まさに広がろうとしているのだった。

靖夫は見たことのない純白の大きな花弁は、なんの花であろうかと、じっと佇みながら思い巡らしていた。今まで生きてきて、一度も見たことのない花のようで、全く分からぬのだが、見る間に花は見事な大輪の花弁を広げ、十字のついた長く大きな蕊をのばしていた。純白の花はやがて?を染めるかのように、淡いピンクから紅色に染まっていった。

空を見上げると、前方にあった月が頭の上の方にまできており、小一時間ぐらいの間の出来事であったろうか。花なのに僅かな時間で蕾から開花し、染まりゆく様が、まるで人のような生き物に感じられた。

不思議なものを見たものだと部屋に帰り、普段より穏やかな気持ちで眠りについた。

朝になると、朝食を早に済ませて、あの河原へと向かった。昨夜の花は夢であったろうかと、探せども探せども見つからず、草をかき分けたところ、紅色に染まった花弁が傘をとじたように萎んで落ちているのを見つけた。一夜花かと呟き、一度の出逢いが夢のように二度とみることができぬ寂しさを覚えた。そうして、指先で花のついていた草に触れ、頭のあたりを見てみると、雌蕊の根元が僅かに膨らんでいるように思えた。

もしかしたら種ができるかもしれぬと考え、それから毎日その場所に通うのだった。

夏も過ぎ秋を迎える頃、見事に膨らんだ房には、種が数粒入っていて、靖夫は思わず笑みを浮かべた。これでまた逢えると心の中で思っていた。

福寿草に続いて菫が咲き、桜がほころび始める頃に、靖夫は狭い家の庭に、その種を埋めて水をやった。花など育てたことのない靖夫は、どれぐらいの陽あたりの場所が好きなのかと考えた際に、河原の草叢は陽あたりのよい場所であったことから、明るい場所に埋めるのがよいと考えていた。水遣りについては、祖母が母をよく叱っていたのを思い出し、注意深くするのだった。

母は日課のように毎日植木に水をあげていたのだが、祖母は、花が水を欲しいと思った時にやらなきゃならん。今土の色が濃いのだから、根には充分の水がある。長いこと濡らし続ければ腐れてしまう。夏には、朝水をあげたからいいと春の時と同じような頭だからいかん。土が白っぽく、これだけ乾燥しているのだから、今こそあげる時じゃないのか。などと、亡くなるまで、いつでも不出来な時には叱っていた。

それから二、三週間もすると芽が出て、すくすくと育っていった。雨や風の強い晩には、気になって何度も起きて見にいき、やがて蕾がついたのに気がついた。

この花の名前はなんというのだろう。今度は一部始終を眺めていたいと、まるで恋でもしたかのように心が逸っていた。

夏になる前の月夜の晩に蕾はほころび、純白の大きな花弁を広げていった。靖夫は、また逢えたねと云い、じっと見つめていた。やがて皺一つなくぴんと花弁が広がると、やはりこんな大輪の白い花は見たこともなく、月の明かりを受け、仄かに輝きを帯び、その美しさに見惚れてしまっていた。間も無く花弁は?を赤らめるよう紅色に染まっていき、靖夫が目を離した時には、傘をとじたように萎んでしまっていた。

靖夫はこの花を調べたところ、絶滅したと云われている、日本月見草であることが分かった。

あれから河原にも行っているが、この花は二度と見ることはなかった。もしかすると、この月見草が最後の末裔なのかもしれなかった。

靖夫は、種ができるまで大切に見守り、月見草はそれに答えるように大きな種を幾つ粒か残して枯れていった。どうしたら枯らすことなく、ずっと共に眺め続けられるのだろうかと真剣に悩むようになった。

夜に人知れず咲き、?を染めるかのように赫らむ、この花に惹かれ、それはあたかも恋をしているかのようにはたからは見えただろう。

翌年に咲かせた時には、靖夫はいつものような嬉しそうな顔ではなく、すぐ訪れる別れを想起して哀しい眼差しで見つめていた。

靖夫は花に月子という名前をつけて呼んでいた。しかし月子は一切の言葉を口にすることはなかった。そして、靖夫が哀しそうにしていると、月子も悲哀に染まっているかのようだった。

来る年も来る年も、靖夫は月見草を花咲かせ、気づけば庭中に咲くようになっていた。

一斉に開花した月夜の晩には、庭が薄明かりに包まれ、月の草はらのように思えるのだった。幻想的な景色に包まれ、月子の気持ちが触れてきたかのように思えた。靖夫は、じんわりと涙を浮かべ、その夜を過ごした。

人魚が人に恋をして、魔女に頼んで人間となったが、最期は泡となって消えてしまった。

人と花ではどうなのだろう。

そんなことを堂巡りの思案の最中に眠りへと落ちてゆくのだった。

或る年に靖夫は一つのことに気がついた。

日本月見草が絶滅した理由は一夜で散り、開花時間も二時間程度と短く、虫などによる受粉の機会が少ないからなのだと。

だからこそ蕊が百合のように大きく立派なのだろう。ならばと、靖夫は花粉を指先につけ、蝶がとまるかのように、優しく雌蕊に触れるようになっていった。

その年は多くの種ができた。靖夫は自らの考察に間違いがないと確信した。

しかし、それがなんだというんだ。自分は花でなく、月子は女でないんだ。声も聞いたこともなければ、はなしをしたこともない。

自分の苦悩を察しもしない月子に苛立ちを初めて抱き、一年でたった一度の開花を見なかった。

靖夫は独りで怒っていた。毎年毎年新しい花がつくが、花は一度きりの恋の夢みて散ってゆく。本当であれば咲き続け、共に居続けてくれたらよかろうに、冷たくも無情にサヨナラをしていくんだ。一番初めに見た月子に自分は恋をしていた。その後に毎年新しく咲く月見草は月子に似ているが月子ではないんだ。もう育てるのはやめようと意を決するのだった。

朝露輝く静かな早朝に、散り落ちた紅の花弁のうえで、草穂の先がまんまるに膨らんでいくのを見た。それは今まで目にした種が出来上がっていく姿であった。しかし、靖夫はいままでとは違うことに気がついた。

柔らかで雨にも負ける弱き花は、木のように風に耐え続けたり、冬を越すことはできぬから、花から種へと姿を変えているだけなのではないのかと。つまり花は死ぬことなく生き続けているのではないのか。

花が散れば亡くなり、その子供となる種が新しい花を付けていると見ていたのは自分で、本当は月子がいつまでもそばで花咲いて居続けるために、種へと姿を変え、また次の夏には花咲かせてきてくれたのではないのかと。

花の世界の掟では、言葉を一切語ることは許されず、月子は黙って咲き続けることで、私への愛に応えてきてくれたのではないか。月子でないと眺めていた時、月子はいったいどれだけ辛い気持ちだったろうか。

生まれ変わることで記憶はなくなり、真っさらな別人が現れていると思ったのは自分で、本当は、ずっと気づかれるのを待ち続けてくれていた。月子、月子、月子。

靖夫はそれからも月子と共に生き続けた。月子は最期まで一言も語ることはなかった。

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